2016年5月2日月曜日

こんな夜は・・・

妄想もできない。

私の頭の中にいるもう一人の女性。


彼女が動けばいいのに、

こんなときは、

彼女すら息をひそめてしまう。


彼女もなかなか幸せになれない女だ。


あたりまえか・・・


私の分身なんだもの。。。

眠れない夜

私がここに文章を書いているときは、
ほとんど眠れない夜。

薬が効かない。

もうどうしようもない。

なぐさめてくれる人も、
隣にいてくれる人も、
寄り添ってくれる人も、
話す人もいない。

床をともにする人もいない。

そんなとき、
無性に自分がふがいなく感じる。


強がって生きてきたこの5年間。

強がれなくなったこの三ヶ月。


花の命はみぢかくて つらきことのみ多かりき

この言葉の意味が今ならわかる。

Twitter

Twitterやめます

というタイトルでこのブログを始めた。

でも、結局止めずに来ていた。

それを、本格的に休止状態にしたのが4月9日だったと思う。

思い切ってアカウントを削除した。

案外さっぱりしたものだったけれど、
お世話になった方々や、
いろいろよくしてくださった方々にお詫びもお礼もしないままフェードアウトするのは間違っている気がした。

なぜなら、心配してくださる方の声が伝わってきたから。


どこか無理して続けていたTwitter。

なんとか孤独を紛らわしたくて、つらいのを我慢して続けていた人間関係。

すべての原点がそこにあった。


本当は、
もっと幸せになれるはずだった。

本当は、
もっと楽になれるはずだった。

でも、

世の中そんなに甘くない。


つらいことが多かったと思う。

傷ついたことも多かった。


ここでいったん私はフェードアウトしようと決めた。


すべてがセピア色になったら、
また楽しめると思う。


それまではさよなら、Twitter。。。

いつか

いつか元気になって、
ふつうに動けるようになって、
ふつうに働けるようになるのかな・・・

とか、

とりとめのないことを考えている。

2016年4月20日水曜日

赤椿

出雲大社の満開の桜の陰にひっそりと咲いていたアカヤブツバキ。





もう、見ごろも過ぎ、
人目を忍ぶようにひっそりと、
ぎりぎり咲いていてくれた赤椿。


桜もたしかに美しかったですが、
なぜか、この椿の姿が私の脳裏から離れません。

2016年4月14日木曜日

白椿

花には罪がないな、って思う。

そんな写真。


2016年3月2日水曜日

別れと出会い

年が明けてすぐ、一月七日に正式に婚約を解消しました。

意外とさっぱりとしたものです。

ですが、体と心は正直で、ほぼ体の動かない日々が続きました。
正確には今でも続いています。
血圧も平気で150超をはじき出す始末。
でも、これは心身が正常に機能しているんじゃないですかね、と思う。

塩分も控えているし、体重もこの半年ちょっとで10kg超落としました。
体重を3kg落とせば、血圧は10くらいストンと落ちると言われましたが、そんなことないです。

でも、自分を受け入れないと、今度は自分が壊れてしまうので、受け入れることにしました。

婚約解消後1週間くらいは、ヘネシーをがぶがぶ飲む生活をしていたのです。

それでも、よく死ななかったな、と思います。

良くも悪くも、躁転も鬱転も起こらなかった。

でも、正直、男性にも興味がなくなってしまいました。

今まで私は、「誰かのため」に生きてきました。

でも、初めて思えるようになりました。


これからは、私は、自分のために、自分の人生を生きることにします。
そう決めました。

今まで長い間ありがとうございました。Tさん。

2016年1月29日金曜日

愛とお金

愛はお金で計れますか?

お金をかけるということがイコールその人を大切にしているということなのでしょうか。

そのあたり、ちょっと迷いますね。

自分が大切にされているのか、相手を大切にしているのか・・・考えると出口がありません。

心地よい関係、それが愛のすべてなのかなと思ったりもします。

渇愛

好きな人ができて、その人と付き合い始めると、いつの間にか「大切にされたい」という感情が生まれてきてしまう。

これをエゴと言うならそれはそれでよいのだけれど、エゴであってもそれを打ち消せないならそれはつらさかもしくは自分勝手でしかない。

大切にするというのも、おそらく十人十色のやり方があって、自分の望む「大切にされ方」でないと、どこかしっくりしなくて悲しくなる。

ああ・・・書いていて思いついたことがある。

これが、いわゆる渇愛というやつなんだな。

仏教の煩悩の最たるもの、それが渇愛。

少しまた仏教の勉強してみようかな。

彼を愛するために・・・

愛することは傷つくこと

マザー・テレサでしたっけね、こんなことを言ったのは。
ただ、マザーテレサがここで言っている愛とは「アガペー」なんだと思う。

つまり、ごく一般的な友人間や男女間の愛には当てはまらない気がする。

傷ついてなお愛するならば、それほど尊いことはないのだろうけれど、人間てそんなに高尚な生き物ではない気がする。

傷つくのが好きな人間なんていないでしょ?

リスカとか物理的な傷を好む人はいるけれどね。

2016年1月27日水曜日

愛の種類

世の中にはとても自分を愛している人がいる。

自分を愛せるのはとても幸せなことだと思う。

しかしそれは得てして、他人に対する自慢だったり、ひいては嫌味になることもある。
でも、そういうひとはそれに気づかない。
それはそれでまったく構わないし、人を変えることなんて土台無理なのだから、こちらが対処すればいいだけのこと。

ただね、少しは相手のことも考えないといけないと思うの。

自慢して、得意げに語って、相手が「うん、うん、そうだね」と相槌を打ってくれているのに気づかなかったら、ただの馬鹿だと思うの。

だけど、さっきも書いた通り、人を変えることは土台無理。

だから私はそういう人から去るの。

だって、それしか手段がないんだから・・・

愛してたって、それしか手段がないんだから・・・

2016年1月26日火曜日

恋人

男の人と付き合うのは楽しいし、それは幸せなんだけれど、なにかとても重要なことに違和感を感じながら付き合うのなら、それはもうやめた方がいいと思った。

自分の価値観を相手に押し付けるつもりは全くないけれど、かといって尽くすばかりが能じゃない。

尽くして尽くして食い物にされたことがあるから、よくわかる。